揺らぐ憲法状況での実感的ミニコミ論

                                                                  ー 大転換期のメディアで生き抜くために ー
                                                                  矢間 秀次郎(共同代表)

                                         (「奔流」第10号所収)

▼広大な裾野に湧く泉

   いったい、「メディア」とは何だろうか。高齢者は新聞・ラジオ・テレビ等の媒体という単純なイメージを抱く。若い世代はインターネット化の肥大する“メディア空間”で育っただけに、媒体が無限大に膨らむ。ひと口にメディアというが、もはや「機械時代」の無機的な代物ではない。ささやかなミニコミ論ながら、筆者の立脚点を明らかにして臨みたい。  
 そこで参考になるのが、内田樹著『街場のメディア論』光文社新書の新しい定義(佐々木俊尚氏の提唱)で、「マス・メディアとパーソナル・メディアの間にある中間的な圏域を指す=ミドルメディア」という概念だ。筆者がかかわってきた環境問題を主題にするミニコミ〈7頁別表参照〉は、すべてこのミドルメディアに属する。
 発行母体の特性を実感的に列記してみる。
(1)官僚的組織運営に与せず、臨機応変で創造的批判精神を重視。
(2)非営利的なマネージメントで、ひらかれた組織活動を展開。
(3)独立自尊で特定の団体に媚びない。 憲法が謳う「平和と人権」を基盤にする豊かな空間で、広大なメディアの裾野に湧く泉がミニコミである。

▼編集案を急旋回して憲法特集

   お手元の『③』10号「憲法特集」の決定過程をふりかえる。
 今年3月末日、9号が出るとまもなく、編集委員会(定員5人)の有志で合評会をもった。反響がまだ届いていないが、次号の特集テーマ等の意見交換も行って方向性をだす。4月上旬、八ッ場ダムの会合で霞ヶ浦の放射能汚染とうなぎの出荷停止などが話題になり、特集できないかを模索した。霞ヶ浦のIさんに執筆を依頼し、編集案が70%仕上がっていた。しかし、4月下旬になって憲法改正をめぐる動静が激変していく。
 こうした歴史的様相を傍観しているだけでいいのかー煩悶のなかで決断し、Iさんに11号への順延をお詫びして、急遽、編集案の組換えが行われた。「官僚的な組織運営」では、混乱を回避して、既定路線で無難に通り過ぎただろう。
 なぜ、急旋回して、流れを変え得たのか。筆者がミニコミにかかわったルーツに遡る。『①』が源流である。これが丸山尚著『「ミニコミ」の同時代史』平凡社刊の「全国ミニコミ一覧」に収録されている。発行目的を、「水系保全の世論形成」と記す。丸山氏はミニコミを「少数者の側に立ち、独自な主張や訴えのメディアに徹しなければならない」と説く。
 タカのように天空高くではなく、筆者はスズメの如く路地を這いつくばって独自の活路を拓くのに汗を流してきた。
 昨今、マス・メディアへの批判が目立つ。上杉隆氏は著書『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)で、「もはや新聞・テレビは権力をチェックする立場と国民に知らせる義務を放棄」したと、厳しく批判。その後、森達也氏との対談・共著『誰がこの国を壊すのか~人類はメディアによってほろぶかもしれない』ビジネス社刊でも、「市場原理に埋没したメディア」の実相に鋭く迫っている。
 だが、同書で森氏は「メディアは民意に従属する」と喝破。メディアを使った世論操作で洗脳された「民意」が、権力基盤に墓穴を掘ったのが歴史の教訓でなかったろうか。8・15敗戦、そしていま、人類史上初のフクシマが奈落への穴を掘りつづけている…。
 石村善治・奥平康弘編『知る権利ーマスコミと法』有斐閣選書の「マスコミが退廃してダメな社会は、市民の表現行為をも抑圧しょうとする社会である」との“憲法の危機”に通底し、市民の「権利のための闘争」に行きつく。

▼情報公開・説明責任を果たす努力

  『①』では創造的批判精神の発露を河川行政のあり方に求めた。専横する「行政の論理」に抗して、「水辺の空間を市民の手に」をスローガンに論陣をはった。流域の調査研究を市民が独自に行い、データをもとに改革を迫る高揚感を反映してか、三多摩問題調査研究会のネーミングがいかめしい。
 いつも財政は、「赤貧洗うが如し」。マネージメントの一端が、「調査・研究経費などは“手弁当”の協力、奉仕活動に支えられて賄うことが出来た」と、松岡恒司事務局長の報告(『①』32号)にある。42年後の今も、「世話人及び会員の活動は無報酬とする」(当会則第3条)と、継承されている。
 「ひらかれた活動」を会則に謳って、情報公開法制定運動にも関与した。1980年発行『①』40号のトップ記事「情報公開を求めて始動~市民の手で“知る権利”確立を」が、吉川和夫会員(後に東京都副知事就任)の文責で載っている。しかし、河川環境をめぐる行政訴訟で原告側につき、説明責任を果たしたものの、情報公開に限界があった。
 そのころ、野川流域に19の市民グループが群雄し、世論形成を果たしたかに見え、“分水嶺を越える”必要性を痛感していた。滝沢ダム建設をめぐる映画「あらかわ」シグロ製作に与した1993年、組織を発展的に「ATT流域研究所」に改組(臨時総会で円満に協議の上、二つに分割)。荒川・多摩川・利根川のイニシアルをとって、誌名を『②』に衣替えした。

 

▼初心の言霊が今も

  ヘビやカニは、脱皮しながら成長していく。筆者自身が「襤褸の衣」を脱ぎ、気鋭の若い会員を『②』編集長に起用した実験的こころみがあった。メディアにも紹介され、“快挙”に見えた。
 しかし、原稿、編集が整っても、それだけでダイナミックなミニコミ活動は出来ない。読者、協賛者、会員との信頼関係を保持し、原資(取材費、印刷費等)をどう調達するかの壁が立ちはだかる。しかも特定の団体に媚態をみせずに独立自尊を貫かねばならない。会費値上げへ傾斜するか、頁や部数を減らし縮こまるかの重大な岐路に立つ。
 原資を得るべく若人は、数件の紹介先を協賛広告の募集に歩いた。一件の成約も得られなかったが、素晴しいチャレンジ精神で徒労ではない。「ボク、営業の適性がないですね」とのつぶやきがポタ、ポタと落ちる滴のようにひびく。
 まもなく2005年、その若手らを中心に協賛広告がいらないデジタル・マガジン化の動議が機関決定され、筆者が『②』の廃刊を宣言、メディアの一つが消えた。やがて数回だされたデジタル・マガジン版も、あとかたとなっていく。
 原資を自ら得てこそ、ミニコミに生命が宿るーこれを教訓にできれば、確執も不毛ではない。筆者が協賛広告の募集を初体験したころ、老舗料理店に玄関から入って用件を伝えたら、「御用聞きは勝手口からよ、なにそれ」と、仲居頭に言われた。その初心の言霊が今も、清冽な泉に湧いて流れている…。

 

 

①『野川を清流に』三多摩問題調査研究会発行:1973年創刊(B5判片面タイプ印刷で100部、後に最大16頁12、000部オフセット印刷)。1985年55号から協賛広告の掲載開始。1995年に76号で終刊。
②『ATT』ATT流域研究所発行:1993年創刊(B5判8頁2、200部、後に最大16頁5、000部)、2005年に36号で廃刊。
③『奔流』千曲川・信濃川復権の会発行:2010年創刊(B5判3、000部、後に12頁3、800部)、発行継続中。

 

第3回総会(2012年)

  2012年5月26日、新潟県津南町の「津南町文化センター」会議室で開催され、52人が参加しました。

 根津東六共同代表があいさつ。そのあと、活動報告、会計報告、監査報告などが全員の拍手で承認されました。続いて本年度の予算案、活動計画案が示されました。特に他団体との提携事業で、「第28回水郷水都全国会議」の開催で、名水の里・津南町をノミネートに追加する件が了承されました。

 共同代表は立候補がなく留任。新たに会計担当・事務局次長兼務に細木博雄さん、監事に山本美穂さん、石橋正彦さんを選任しました。

                             

                               戸張雅子(総会議長、編集委員) .

記念講演会

「豪雪と名水の河岸段丘in津南」

2012年5月26日、 津南町文化センターで開催

 

開会のあいさつ         根津東六(千曲川・信濃川復権の会共同代表)

 

記念講演      「3.11後の地域づくりの課題」

              鬼頭秀一(東京大学大学院教授)

パネル討論会   「千曲川・信濃川流域の活性化に向けて」
       パネラー  鬼頭秀一

              内山緑(竜ケ窪の水と環境を守る会代表)

              庚敏久(パワードライブR117代表)

              桑原悠(津南町町議会議員)

              橘由紀夫(環境カウンセラー)

                司会進行 相澤博文(NPO法人・GO雪共和国代表)       敬称略

                                                                                                                     

                                     

講演する鬼頭教授
講演する鬼頭教授